「春と男のチョッキ」田辺聖子
私は今、無職で家事手伝い中というか
花嫁修業中である・・
勤めていた会社はやめてしまった。
家族には反対されたが
母は「料理も家事も何も出来ないから
この際家にいて花嫁修業をすればいい」と
言ってくれた。
私が会社をやめたのは
同じ会社の大倉という男性社員のせいである・・
☆☆☆
大倉さんは独身でハンサムで快活、仕事も出来、
女性社員からも人気があった。
私と同い年だが
入社は私の方が二年早く、
私は大倉さんに仕事を教えてやったりして
だんだん仲良くなっていった。
そしてそのうちに
大倉さんから遠回しにホテルに誘われるようになったのだ。
私は大倉さんの誘いを躱しつつ、
付き合いを楽しんでいた。
大倉さんは笑うとみそっ歯がのぞくところが
可愛らしく、
上着を脱いだ白いシャツにチョッキ姿が艶めかしかった。
私は同僚の友人、久美子に大倉さんのことを
話した。
久美子はハッキリと「身体が目当てなだけ。
あんたはバカにされてる」と。
ある日、会社の帰り、電車の中で
私は大倉さんに言った。
「私と結婚してくれるの?」
大倉さんは白けた顔になって答えた。
「実家を出ても
今の安月給では暮らしていかれへん。」
会社内での夫婦共働きは禁じられていた。
でも私はそのくらいの生活費は
何とかして稼ぐつもりでいた。
「何でそんな苦しい生活をする必要がある?」
大倉さんはそう言って新聞を広げた。
このまま会社にいたら
そのうちに大倉さんの言いなりになってしまうかもしれない。
私は会社をやめることにした。
☆☆☆
会社をやめることが分かった時、
大倉さんが少し顔色を変えて聞いてきた。
「なんでやめるの?結婚するの?」
「うーん、どうかな・・」
「アハハ」
大倉さんは毒気を抜かれたようだった。
私は大倉さんと「特別な仲」になれなかったのが
実は少し残念だった。
☆☆☆
花嫁修業に飽きた私は
小さな会社の面接試験を受けて
採用通知をもらった。
私は冬眠から覚めたように
嬉しかった。
又世の中に出ていけるのだ。
世の中にはいい男は一杯いるだろう。
でも大倉さんのように
チョッキ姿が艶めかしい男は
他にいないだろう。
☆☆☆
このお話がかかれたのは
昭和58年頃・・
まだ「婚前交渉」とか「順序が逆」っていう言葉が
あった頃でしょうね。
昔は職場結婚すると
どちらかが会社を辞める規則もあったのかな・・
ベストをチョッキというのも、
昭和ですね。